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09 依頼

パシャり、そんな音を立てて水は地面から跳ねた。
月明かりが孤独な男を照らした。
場所はどこだかよくわからなかった。無機質な壁と、天井に近い位置にある窓だけは確認できた。
手放しかけてた意識が無理矢理戻される。この感覚ももう何度目だろうか。そんな事をぼんやりと考えていると、再び腹部に痛みが伝わる。だんだんと麻痺してきた感覚だが、皮肉なことに痛覚だけは健在のようで素直に痛みを伝えてくる。

「過激な攘夷浪士共は力でねじ伏せる事しか知らないようだけど、力だけではどうしようもないこともある。特にその力を振りかざして、壊してしまった物は元には戻らないよ」

痛みに耐えながらもまだ憎まれ口を叩く黒髪の男は苗字家当主──名前の夫でもある。口から血を吐きながらも余裕の表情を繕っている。彼の周りには血が点々としている。
彼の頭を鷲掴みにし、顔色を伺う大男はこの攘夷浪士達を率いる親玉だ。本人は手を下さず、部下であろう者達が彼に手を下す。

「影武者なんて使った卑怯者がかっこつけやがって」
「影武者?そんなものを使うのなら、私はわざわざ敵地に出向くなんて事はしないさ」
「どうだかな。それより、一家を守るために敵地に潜り込んだものの、無様なもんだなあ」
「昔からかくれんぼは苦手でね。いつも1番最初に見つかってしまったものだよ。でも、私が見つかる事によって他の誰かが助かる事もあるんだ」

両手両足が縛られ、殴る蹴るは当たり前。夷労会に対抗する過激派攘夷浪士は当然容赦はしなかった。

「ゲホッ……、君はおしゃべりが大好きなんだね。さっさと私の首でも切り落とせばいいのに、ずっとこうして私とおはなしするなんて」
「フッ、最初はお前のその首切り落として、手前の女房にでもくれてやろうとしたんだがな。調べてみりゃ、その女房って奴ァ元攘夷志士ときた。真選組の目の前で旦那が無惨な死に方でもしてみろ、そいつァたまったもんじゃあないだろ。もう一度攘夷志士としての心って奴を取り戻してやろうじゃねえか。手前は夷労会だかなんだか言って、女房の心を癒そうだとか馬鹿な事考えてるようだが、俺たち攘夷志士に一度宿った火は、そんなちっぽけな事じゃあ消せねぇ」
「本当によく喋るね」

1人で楽しそうに喋る大男を煽ると、返ってきたのは丸太のような足。彼の横腹にめり込むと、蹴っ飛ばされて再び床に転がり込む。

名前は大丈夫。あの指輪を付けている限り……」

男は自分を安心させるために小さく呟いた。あの指輪──婚約指輪を付けている限り彼女は無事であると信じている。

「残念だが、どうやら時間みたいだな。観客がうるさくて仕方がない」

大男が窓から下の階を見下ろす。2階建ての建物の下には、真っ黒な服を着た真選組の隊員の姿があった。建物への侵入を試みているようだ。

「連れてけ。ここじゃあ舞台が狭すぎて見世物が台無しだ」

大男が指示すると、部下の男数名が彼を引きずって建物1階の中庭へと連れて行く。
建物は2階建のものが2棟、1階の中庭で繋がる形になっている。彼が連れていかれたのは、その中庭の先にある建物の2階。
建物の入り口は一つ。四方を水で囲まれている、小さな離島は一本の橋を渡る事でしか侵入はできない。建物を囲う塀は高く頑丈で、裏からの侵入は困難とされ真選組らは正面からの突破を余儀なくされる。
大剣を手に取り、大男も後から中庭へと向かった。正門に配置している部下達を突破したとしても、自身の元に辿り着くには時間がかかるだろう。そう思い、彼を殺すための準備に取り掛かろうとした。

「すみませーん。人を探しているんですけど」

中庭にいる大男に、月明かりによって出来た影が覆いかぶさった。
大男が振り返ると、先程自身がいた建物の屋根の上に着物を着た女の姿があった。逆光で詳しい風貌はわからないが、左手から銀色に光る刃が月光に反射した。

「黒髪の癖っ毛で顔立ちの整った好青年見ませんでした?……私の夫なんですけどォ!!」
「ほぉ、こりゃ驚いた。招待状を送った覚えはないが、自ら乗り込んでくるとは!!」

そのまま飛び降り、大男の頭上へと切り込む。大男も刀を抜き、名前の刀を迎え撃つ。
刀と刀がぶつかり、ギリギリと音が響く。大男は名前の刀を軽くあしらうと、両者数歩後退る。

「招待状?何を勘違いしてるのか知りませんけど、私は人を探しているんです」
「そいつァ残念だ!!客人第1号だと思って歓喜しておったのに」

自分よりも背の高く、ガタイの良い大男にも臆することなく名前は斬りかかる。しかし、力では大男の足元にも及ばない。何度も押し切られそうになりつつ、刀を振りほどいてまた斬りかかる。その繰り返しだった。

「おい、女にしては惜しい刀さばき。お前さん、元攘夷志士らしいじゃねえか。どうだ、もう一度その刀を国のために握ってみねえか?」
「……!」

大男が、バランスを崩した一瞬を見逃さず、名前の刀に自身の刃を振り下ろした。刃の重さに耐えきれず、名前の刀が上から切断されるように折られた。
さらに大男の蹴りが名前を襲う。すんでのところで名前が急所を庇ったため、大した怪我にはならなかった。しかし、勢いよく吹っ飛ばされて建物の壁に叩きつけられる。

「生ぬるいよな。俺たちが味わった屈辱を数年で癒そうなんて。……立てよ。旦那取り戻しに来たんだろ?計画変更して、手前の首持って旦那にくれてやるよ」
「……っせーな。ペラペラペラペラと、おませな女の子かテメーは」

砂埃の中、立ち上がった名前が大男を睨む。先程の丁寧な口調とは違い、荒々しく低い声が響いた。鋭い視線に、やや吊り上がった眉。口調だけでなく、顔も刃のように鋭い印象になった。

「ほぉ、それが本来の姿か。……だが、命の刀が折れた今。この俺にどう立ち向かうつもりだ」
「刀はもう必要ない。攘夷志士としての私の心はとっくの昔に折れてんのよ」

折れた刀をその辺りに投げ捨てると、己の身一つで大男の元へ歩み寄った。
その瞬間、真っ黒な人影が2人を覆った。何が起きたかわからず大男は思わず頭上を確認してしまうが、その真逆で名前は大男を見据えたままニタっと笑う。

「万屋銀ちゃん、ただ今お届けに参りましたァァァ!!!!」

暗闇から飛び出してきたのは銀時。手に持っているのは薙刀。その薙刀を、名前に向かって投げ渡す。後ろも確認せず、名前がそれを片手で受け取ると大男に向かって構えた。

「……ハンコは私の夫からもらいな!」
「かしこまりましたーッ!」

着地した銀時を横目で確認すると、夫がいる方角を目で指した。それを察した銀時が2人の横を走り去る。逃さないように大男が銀時の元へ向かおうとするが、名前の薙刀の切っ先によって阻まれる。

「刀以外にも武器はあるのよ」

待機組が建物に侵入した時間から遅れて数分後、追い付いた土方達は奇妙な光景を目にした。
自身の身長を遥かに超える大男の刀を、着物を着た女が薙刀一本で応戦している。女はよく見知った顔だが、いつもとはまるで別人な雰囲気を身に纏っていた。土方は、鎧を身につけた戦士がそこにいるかのような錯覚に陥った。

「土方さん、よそ見は危ねェですぜ」
「どさくさに紛れて俺を攻撃すんな!……おい山崎、こりゃ一体どうなってんだ?」

敵と沖田からの攻撃をかわしては薙ぎ払いつつ、山崎に現状報告を急いだ。山崎は屯所であったことから、この建物突入までの経緯を戦いながら話した。
一般人に連れられた隊員に怒りを通り越して呆れを露わにした土方は、感情の赴くままに敵を一掃した。一方沖田は、そんな土方を討つ機会を伺いつつ、敵からの攻撃に身をかわした。

外から刀と薙刀がぶつかり合う音が響渡ってくる。その音に紛れるように、木刀を構えて銀時は暗闇の中を進んだ。雑魚兵をなぎ倒し、階段を上って2階へと。見張りを簡単に眠らせれば、あっさりと男の元へとたどり着いた。かつては白夜叉と恐れられた銀時、その腕は流石というものであった。

「よォ、生きてるか?」

全身傷だらけで気を失っている男に声をかけた。状況からこの男が名前の夫である事はすぐにわかった。彼を縛っている縄を解いて、2、3度顔を軽く叩いた。
男は小さく唸り、その瞼を開いた。朦朧とする意識の中にいるが、なんとか銀時の問いに応える。

「……残念ながら生きてますよ」
「もっと喜べよ。女房が直々に助けに来てるってのによ」
名前が…!?どうして!」

傷口が開くのも忘れて銀時に掴みかかった男、よほど焦っているのか目を見開いて銀時になにかを訴えかけている。それに加えて、先程大男と対峙していた時の口調とは変わって弱気なものだ。

「僕のせいだ、やはり結婚なんてしなければよかったのかもしれない」

一人称も私から僕へ、彼の素のままの口調だった。

「おいおい、あいつの心を奪いやがった男がどんな奴かと思えば、とんだ草食系男子だ。最近の流行りか?ったく、どいつもこいつも流行りに敏感な事で」

名前の事が絡むと愚痴のような話になってしまう事は話している本人が1番理解していた。わざわざ旦那の元で愚痴を言いに来たわけではない。

「すみません。名前は、あなたと結ばれるべきでした」

何かフォローを入れるべき。自分を卑下した男のまとう空気が銀時にとって不愉快で仕方がなかった。しかし、特に気が利いたフォローを入れられるような器用さは持ち合わせていなかった。

「……もっと自信持てよ。顔は、まぁ俺には及ばないが、そこそこの顔。声も俺には及ばないが、そこそこの声。それに、お前があいつの事を救ってやったんだろ?それがなきゃ結婚なんて……」
「それは違う!」
「あ?」
「それは違うんです。僕が救われたのです」

急に声を荒あげた男に銀時は眉を顰めた。
名前が夫の、目の前にいる男の話をするとき、目を細めて懐かしむような笑い方をしていたのを銀時は覚えていた。救われた事に大変感謝している事も感じ取っていた。しかし、男はその事を否定した。数回、「それは違う」と呟き、左胸に手を押し当てた。まるで心臓を握るように、強く押し当てた手により汚れた服にシワが寄った。